昭和53年創業の先代の父(和光硝子アルミセンター)との協力の元、平成10年に「窓から見える風景」を念願に、ガーデンエクステリア「株式会社 二光 開設」の運びになりました。その後、女性デザイナーによるOnly One の庭づくりをコンセプトに
「SHINY GARDEN」が誕生し、今まで、さまざまなお庭のデザインと施工を手がけてきました。これも、多くのお客様が弊社を選んでくださったおかげです。
現在世間では、景気の先行不透明な状態が続いています。そんな中、私にできることは何か、自分の生き方を振り返ってみました。
20代、30代は必死に仕事に打ち込み、地域のボランティア活動や、現場に足を運んで色々な人生観を感じながら生きてきました。
そんな経験を積み重ねながら、自分の今後の生き方が少しずつ見えてきました。
困った人を助け、人に役立つ生き方、共に支え合う、共生の精神です。私の中で一番大切にしていることは、人への感謝の気持ちです。たくさんの方々に助けて いただき、成長することができました。まだ、未熟者でございますが、今後、仕事や地域で貢献できることがあるとすれば、それは、「人・地域・暮らしを輝か せること」だと思います。与えられた環境の中で精一杯に力を出し尽くすことで、今までお世話になった方や、地域を支えていきたいと思います。共に支え合い ながら、役に立てる生き方が私の理想です。
取得資格
1級硝子技能士 | エクステリアプランナー | ガーデンコーディネーター |
バルコニー施工技能士 | 愛犬家住宅コーディネーター | 2級ホームヘルパー |
福祉住環境コーディネーター2級 | アシスタントカラーコーディネーター | ガイドヘルパー |
幼少期の思い出
幼い頃の思い出
『仮面ライダーV3』の自転車を買ってもらった事
皆様、こんにちは。 先日昔のアルバムがたまたま出てきたのですが、そこにはとても懐かしい1枚の写真がありました。
4~5歳の時に父に買ってもらった仮面ライダーV3の自転車に嬉しそうに乗る私の写真です。
当時父が商売を始めて間もない頃でした。
周りの友達は、私よりも早い段階で自転車に乗って遊んでいたのですが、その時は余裕がなく、なかなか買ってもらえなかった事を記憶しています。
やっとの事で買ってもらったのが仮面ライダーV3のぴかぴかの自転車。
私は嬉しくて、見せびらかしながら乗っていました。....ところがです。私よりずいぶん前から自転車に乗っていた友達は皆、私を見て全くうらやましそうではありません。 むしろ「あれ」が付いていることで、バカにされていた感じがありました。
「あれ」というのは後ろタイヤに付いている『補助輪』です。
まだ自転車に乗り始めた私には周りの子がなんでそういうのか、なんで自分の自転車だけが補助輪が付いているのかわからずに親に話したそうです。 すると父が「外して練習した方が良いだろう」と補助輪を外してくれたのですが、今までと感覚が変わってしまい「これじゃ乗れん!」
と私は泣きました。 そこからは父が補助輪を付けては外しを繰り返しながら、私の練習に付き合ってくれて、やっと補助輪なしで乗れるようになったのです。
その時の懐かしい写真を見て淡い頃を思い出しました。
私に気づきをくれた青春時代
小学校3年生から野球を始めて、以後、寝ても覚めても野球漬けの日々。リトルリーグ時代にはリーグ優勝し韓国まで遠征に行ったこともあります。もちろん中学でも野球部、野球特待で入学した高校では寮にも入り、甲子園を目指し、日々練習に励みました。
それはいつも通り猛練習に耐えていた高校2年の夏、思いもかけない事件がおこりまし た。当時の野球部の練習風景といえば、「水は飲むな」「走れ」「我慢!我慢!」の「巨人の星」さながら。仲間たちが監督の目を盗んでトイレの水を飲んだり 自己防衛をしてる中、この頃から要領があまり良くなかった私は、監督の言いつけどおり、水分も取らず必死で練習をしていました。昨今では考えられません が・・バットで殴る、蹴るの猛烈なシゴキにも耐えていましたが、もちろん当時はそれが当たり前でした。
そしてある日、練習中に突然意識を失い倒れたのです。脱水症からきたのだと思われま すが、悪いウイルスが脳に入りこみ、炎症を起こしました。脳炎の一種です。4日間、死の淵をさまよいました。この時の記憶は全くありません。家族は医師か ら「今夜がヤマです」「覚悟してください」と告げられていたそうです。奇跡的に一命を取りとめ、意識が戻り、両親・友人・監督・先生、皆が安堵の表情を浮 かべてくれたのは覚えています。
この日を境に、大好きな野球が出来なくなり、「なんで自分だけがこんな目に遭うのだろ う?」「一生懸命やってきただけなのに」自問自答の日々が続きました。それでも少しずつ体が回復していって、リハビリをし、練習に戻ってみようという状態 まで回復できたのが3年生の春先でした。しかし、努力はしてみたものの、半年間のブランクと倒れた時のトラウマが重なり思うように体が動きません。「野球 を続けていく自信がない」と初めて弱音を吐きました。
その時、悩みを打ち明けた担任の先生に「辞めたあとはどうするんだ?」ときかれまし た。「辞めたら勉強を一生懸命にします」と言いました。監督には野球が好きならマネージャーでもいいか続ける方法はあるんだと教えて頂きましたが、1週間 悩んだ末、心配する両親や色んなことを考え、 9 年間の野球生活にピリオドを打つことを決めました。
3年生の5月以降は就職活動も視野に入れながら勉強に打ち込みました。野球で生きてきた僕にとって勉強にはかなりの努力が必要でしたが、とにかく頑張りました。その甲斐があって、クラスで1位2位を争うところまで成績 UP でき、野球は途中で挫折したけど
勉強のほうで学校推薦がもらえるようになりました。クラスメイトと頑張って完全皆勤賞 も取りました。(1年間、クラスの誰ひとり休んだり・遅刻・早退をしないこと)。先生との約束を守れた達成感や、仲間と助け合う気持ちや励まし頑張りあう こと。一緒に頑張ったクラスメイトや、今でも自分を認めてくれ励ましてくれる野球部の大切な仲間たち。
波乱万丈あったけど、かけがえのない青春時代が送れました。
卒業の時、担任の先生から、「お前は商売人の子だから、あらゆる可能性にかけてみろ」との言葉をいただきました。色んな体験と気づき、チャレンジ精神をくれたこの学生時代の色んな出会いにただただ感謝です。
最後にもうひとつ先生がかけてくれたことば「継続は力なり」。いまでも心に刻み日々、頑張っています。
生死の境をさまよった経験から・・・
高校時代、野球の特待で高校に入学し甲子園を目指しました。
しかし、3年の夏、練習中に倒れ、3日間意識不明の重体に。生死の境をさまよいました。
奇跡的に生還を果たし、「死ぬ気でやれば何でもできる」あきらめない精神を身につけました。
父と母の営む「和光ガラスアルミセンター」を手伝うために、卒業後すぐに、アルミサッシ・エクステリアの会社へ就職し、3年間親方に付いて修行をしました。
「おさめきれない現場は無い」というほど構造物に詳しくなりました。
のちに、ガーデンルームという、アルミとガラスでできた構造物と出会いました。
私がガーデンルームに強くなったのは、この時の経験が活かされているのです。
ガーデン&エクステリアで、人・地域・暮らしを輝かせる
その後、エクステリア&ガーデンの仕事に従事し、お客様の最高の笑顔と出会う経験をしました。
強みである「ガーデンルーム」とお庭の融合。アルミエクステリアと植物の融合。
「生活が変わった!暮らしが変わった!」お客様の最高の笑顔と、ありがとうの声を直接聞くことのできるこの仕事にとてもやりがいを感じています。
プライベートでは家族ができて、守るものができました。
家族を養うために、ガラス・サッシの下請け業から脱却することで、低価格・スピードのみが問われる毎日から、お客様の笑顔にも出会える毎日へとシフトしました。
シフトするにあたっては、数々の勉強を含め、大変な事が目白押しでしたが、一度死にかけた人生、なんとか頑張って花を咲かせたいという強い気持ちと、職人として現場をこなしてきた自信が自分を突き動かしました。
施工コンクールで全国トップクラスの賞を連続で獲得させていただきました事も、その積み重ねの結果だと思っています。
庭づくりで人と地域をつなぐ
お客様からは、素敵なお庭を手掛けさせていただき、たくさんのありがとうを言って頂いて、庭を楽しみ植物を育て、現在進行形で庭づくりを
一緒に楽しませていただいております。
これからも「お庭を楽しむこと」「家族で楽しむこと」を提案していきたいと思っております。
お庭は作った時が「終わり」ではなく、お庭を作った時が「始まり」。
木が育ち、花が育ち、お客様がどんどん輝いていく姿に触れ、家族が仲良くなり、人が集まり、地域がキラキラ輝く。そんな素敵な循環を広げていきたいのです。
最後に、私の両親は、「和光」の1文字を取って、私に「光二」という名前をつけてくれました。
「世の中に光を与え続ける人になってほしい」そういう願いも込められているそうです。
そして私は、父の築いた「和光」の名前を次世代までしっかりと残していきたいという思いと、「光二」(自分自身)、
2つの光で地域を輝かせたいという思いを込めて、会社名を私の名前を反対にして「二光」と名付けました。
私は今の仕事で、お客様の優しさや家族が輝く姿、たくさんの笑顔を知ることができました。
そんなお客様・家族・地域に恩返しができるように、そしてこれからもますますお客様・家族・地域が輝いていけるように、努力していきたいと思います。